ブレイクのダンテ「神曲」への挿絵
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三匹の獣から逃げるダンテ:ブレイクの「神曲」への挿絵



地獄篇第一歌は、地獄篇のみならず神曲全体の序曲とでもいうべき位置づけだ。ここで、神曲という作品の全体構成とかその意図らしきものが語られる、或は歌われる。神曲は、地獄篇の他、煉獄篇、天国篇をあわせて三つの部分からなっているわけであるが、この序曲を除くと、それぞれの部分が三十三曲からなっている。それぞれの曲は、三行詩からなり、それぞれaba-bcb-cdc-dedと言う具合に韻を踏み、最後は一行の文で終る。三行詩の数に制約はない。全体では3n+1行からなる。

この序曲では、ダンテが人生の旅の中途で道に迷うところから始まる。これは、ダンテが生きる意味を見失い、それを再び見出したいという願望を著したものだと考えることができる。道に迷ったダンテの前に、ローマの詩人ウェルギリウスが現れて、ダンテをベアトリーチェのところに導くというところは、道を見失ったダンテに、それを取り戻させることを現していると思われる。取り戻されるのは、ベアトリーチェに体現された真理である。したがって神曲全体は、真理を求める旅を描いたのだと解釈することができる。

 われ正路を失ひ、人生の覊旅半にあたりてとある暗き林のなかにありき 
 あゝ荒れあらびわけ入りがたきこの林のさま語ることいかに難いかな、恐れを追思にあらたにし 
 いたみをあたふること死に劣らじ、されどわがかしこに享けし幸をあげつらはんため、わがかしこにみし凡ての事を語らん 
 われ何によりてかしこに入りしや、善く説きがたし、眞の路を棄てし時、睡りはわが身にみちみちたりき 
 されど恐れをもてわが心を刺しゝ溪の盡くるところ、一の山の麓にいたりて 
仰ぎ望めば既にその背はいかなる路にあるものをも直くみちびく遊星の光を纏ひゐたりき 
 この時わが恐れ少しく和ぎぬ、こはよもすがら心のおくにやどりて我をいたく苦しましめしものなりしを 
 しかしてたとへば呼吸もくるしく洋より岸に出でたる人の、身を危うせる水にむかひ、目をこれにとむるごとく 
 走りてやまぬわが魂はいまだ生きて過ぎし人なき路をみんとてうしろにむかへり 
 しばし疲れし身をやすめ、さてふたゝび路にすゝみて、たえず低き足をふみしめ、さびたる山の腰をあゆめり 
 坂にさしかゝれるばかりなるころ、見よ一匹の牝の豹あらはる、輕くしていと疾し、斑點ある皮これを蔽へり
 このもの我を見れども去らず、かへつて道を塞ぎたれば、我は身をめぐらし、歸らんとせしこと屡なりき
 時は朝の始めにて日はかなたの星即ち聖なる愛がこれらの美しき物をはじめて動かせるころ 
 これと處を同じうせるものとともに昇りつゝありき、されば時の宜きと季の麗しきとは毛色華やかなるこの獸にむかひ
 善き望みを我に起させぬ、されどこれすら一匹の獅子わが前にあらはれいでし時我を恐れざらしむるには足らざりき
 獅子は頭を高くし劇しき飢ゑをあらはし我をめざして進むが如く大氣もこれをおそるゝに似たり
 また一匹の牝の狼あり、その痩躯によりて諸慾内に滿つることしらる、こはすでに多くの民に悲しみの世をおくらせしものなりき 
 我これを見るにおよびて恐れ、心いたくなやみて高きにいたるの望みを失へり
 むさぼりて得る人失ふべき時にあひ、その思ひを盡してなげきかなしむことあり 
 我またかくの如くなりき、これ平和なきこの獸我にたちむかひて進み次第に我を日の默す處におしかへしたればなり 
 われ低地をのぞみて下れる間に、久しく默せるためその聲嗄れしとおもはるゝ者わが目の前にあらはれぬ(地獄篇第一曲から、山川丙三郎訳)

神曲全体は、道を失ったダンテが森の中に迷い、そこで三匹の獣と出会うところから始まる。三匹の獣がそれぞれ何をあらわしているのかについては、さまざまな解釈がある。されらの獣たちに驚いているダンテの前に、ローマの詩人ウェルギリウスが現れる。

この絵は、右下の部分に、下から豹、獅子、雌狼を描き、左側にはウェルギリウスの亡霊を描いている。





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