ブレイクのダンテ「神曲」への挿絵 |
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ダンテとヴィルジリオが第六の嚢に入ると、そこにはフードをまぶかくかぶり、白い僧服を着た者たちが大勢行進していた。これらの者たちは、生前に行った偽善行為のためにここに落されてきたものたちである。彼らの服は、内側が金属でできているために、重すぎて、なかなか前へ進むことができない。そんな彼らを次々と追い抜きながら、ダンテとヴィルジリオは進んで行く。 するとしばらくして、二人の僧侶から声をかけられる。その僧は、ダンテのトスカーナ言葉を聞きつけて、なつかしく思ったのである。二人のうちのひとりはカタラーノと言ってボローニャの人であった。この人は、口先では平和のことを語ったが、実際の行為がそれにともなわなかったことから、偽善者と断罪されたのであった。 しばらく歩いてゆくと、道をふさぐようにして、十字架に貼り付けにされた男が横たわっていた。亡者たちの亡霊は、その男を踏みつけながら進んで行く。 下には我等彩色れる民を見き、疲れなやめる姿にて涙を流し、めぐりゆく足いとおそし 彼等は型をクルーニの僧の用ゐるものにとりたる衣を着、目の前まで垂れし帽を被れり 外は金を施したれば、みる目眩暈くばかりなれども、内はみな鉛にて、その重きに比ぶればフェデリーゴの着せしは藁なり あゝ永遠の疲の衣よ、我等は心を憂き歎きにとめつゝ彼等とともにこたびもまた左にむかへり されど重量のためこのよわれる民の歩みいとおそければ、我等は腰をうごかすごとに新なる侶をえき 我乃ちわが導者に、行または名によりて知らるべき者をたづね、かくゆく間目をあたりにそゝぎたまへ この時一者トスカーナの言をきゝてうしろよりよばゝりいひけるは、黯める空をわけてはせゆく者等よ、足をとゞめよ おそらくは汝求むるものを我よりうくるをえん、導者乃ちかへりみて曰ふ、待て、待ちてのち彼の歩みにしたがひてすゝめ 我止まりて見しにふたりの者あり、我に追及ばんとてしきりに苛つ心を顏にあらはせども荷と狹き路のために後れぬ さて來りて物をも言はず、目を斜にしばらく我をうちまもり、のち顏をみあはせていひけるは この者喉を動かせば生けりとおもはる、また彼等死せる者ならば何の恩惠により重き衣に蔽はれずして歩むや かくてまた我に曰ひけるは、幸なき僞善者の集會に來れるトスカーナ人よ、願はくは汝の誰なるやを告ぐるを厭ふなかれ 我彼等に、わが生れし處おひたちし處はともに美しきアルノの川邊大いなる邑なりき、また我はわが離れしことなき肉體と共にあるなり されど憂ひの滴かく頬をくだる汝等は誰ぞや、汝等の身にかく煌めくは何の罰ぞや そのひとり答へて我に曰ひけるは、拑子の衣鉛にていと厚く、その重量かく秤を軋ましむ 我等は喜樂僧にてボローニア人なりき、我はカタラーノといひ、これなるはローデリンゴといへり、汝の邑に平和をたもたんため 常は一人取らるゝ例なるに、我等は二人ながら彼處にとられき、我等のいかなる者なりしやは今もガルディンゴの附近を見てしるべし あゝ僧達よ、汝等の禍ひは......我かくいへるもその先をいはざりき、これ三の杙にて地に張られし者ひとりわが目にとまれるによりてなり 彼我を見し時、その難息を髯に吐き入れ、はげしくもがきぬ、僧カタラーン之を見て 我に曰ふ、かしこに刺されて汝の目をひくはこれファリセイに勸めて、民の爲にひとりの人を苛責するは善しといへる者なり みらるゝ如く裸にて路を遮り、過ぐる者あればまづその重さを身にうけではかなはじ(地獄篇第二十三曲から、山川丙三郎訳) 男を貼り付けにした十字架が道をふさぐようにして横たわっている。その男の名はカヤバ。キリストを殺すように、パリサイ人たちに焚きつけたとされる大祭司である。そのカヤバが、いまは自分自身が十字架に張り付けられて、仲間の偽善者たちの亡霊に踏みつけられている。 偽善者たちは、本文にあるとおり、フードを目深にかぶり、白い僧服を着ている。上空に飛んでいるのは、羽がある所から、二人を追いかけてきた悪鬼たちであろう。 |
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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2016 このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである |