ブレイクのダンテ「神曲」への挿絵
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ダンテとヴィルジリオとカトー:ブレイクの「神曲」への挿絵



ダンテとヴィルジリオは、地獄を潜り抜けた後に、地球の反対側に出た。そこには煉獄の山が聳えていて、それを上ると天国に通じると言われている。二人は、この煉獄の山を上り、ついには天国へ到るべく、新たな旅を始めるのである。

この煉獄の山は、七つの層(「冠」という)からなっていて、それぞれの層には、七つの大罪を犯した人々が収容されている。彼らは地獄へ落されるほど凶悪な罪は犯してはいないものの、かといって死後たちまち天国へ迎えられる資格もない。そこで煉獄での試練を受け、それを通じて身を清め、無垢の魂となって天国へと迎えられる、というふうに信じられている。

この煉獄の山の麓には、ローマの偉人小カトーがいて、門番のような役目をしている。普通、地獄へ行ったとされた者は煉獄の山に登ることは許されない故に、地獄から出て来たダンテとヴィルジリオに向かって、小カトーは厳しい尋問の言葉をかける。それに対してヴィルジリオは、ベエトリーチェの命に従って生けるダンテを地獄に案内し、ついで煉獄を経てベアトリーチェに逢いに行くのだと告げたうえ、自分は小カトーの妻の霊と共に、辺土にいたことを話す。その話を聞いた小カトーは、二人に煉獄の山を登ることを許すのである。

ところでダンテの時代には、地球が太陽の周りを回る天体(惑星)だとは思われておらず、地球は宇宙の中心だと思われていた。その地球を中心として、あらゆる星座の運行が考えられたとともに、地獄や天国のありかも表象されていた。この「神曲」においては、地球の表面がどのような形をしているかについては触れられておらず、地獄は大地の底に向かって開いた巨大な穴のようなものとして表象されている。そしてその穴を潜り抜けると、地球の反対側に出るわけだが、そこには煉獄の山が聳えていて、それを上ってゆくと天国があるというように、ここでは表象されている。ヨーロッパ人にとって天国とは、文字通り天空の彼方にあるものとして表象されてきたわけであるが、ダンテはその想定を覆し、天国は地球の裏側としての南極にあるとしたわけである。この場合の南極とは、今日われわれが思っているような意味での南極ではない。地球の表面をとりあえず北極とし、その裏側の部分を南極と名づけているわけである。

ともあれ小カトーは、ダンテとヴィルジリオに煉獄の山に登ることを許可する。ただし一つ条件を付ける。地獄で不浄となった顔を清らかな水で洗い、イグサの茎で腰を締めるという条件である。


 かのごとく酷き海をあとにし、優れる水をはせわたらんとて、今わが才の小舟帆を揚ぐ 
 かくてわれ第二の王國をうたはむ、こは人の靈淨められて天に登るをうるところなり 
 あゝ聖なるムーゼよ、我は汝等のものなれば死せる詩をまた起きいでしめよ、願はくはこゝにカルリオペ 
 少しく昇りてわが歌に伴ひ、かつて幸なきピーケを撃ちて赦をうるの望みを絶つにいたらしめたる調をこれに傳へんことを 
 東の碧玉の妙なる色は、第一の圓にいたるまで晴れたる空ののどけき姿にあつまりて 
 我かの死せる空氣――わが目と胸を悲しましめし――の中よりいでしとき、再びわが目をよろこばせ 
 戀にいざなふ美しき星は、あまねく東をほゝゑましめておのが伴なる雙魚を覆へり 
 われ右にむかひて心を南極にとめ、第一の民のほかにはみしものもなき四の星をみぬ 
 天はその小さき焔をよろこぶに似たりき、あゝ寡となれる北の地よ、汝かれらを見るをえざれば 
 われ目をかれらより離して少しく北極――北斗既にかしこにみえざりき――にむかひ 
 こゝにわが身に近くたゞひとりの翁ゐたるをみたり、その姿は厚き敬を起さしむ、子の父に負ふ敬といふともこの上にはいでじ 
 その長き鬚には白き毛まじり、二のふさをなして胸に垂れし髮に似たり 
 聖なる四の星の光その顏を飾れるため、我彼をみしに日輪前にあるごとくなりき
 彼いかめしき鬚をうごかし、いひけるは。失明の川を溯りて永遠の獄より脱れし汝等は誰ぞや 
 誰か汝等を導ける、地獄の溪を常闇となす闌けし夜よりいづるにあたりて誰か汝等の燈火となれる 
 汝等斯くして淵の律法を破れるか、將天上の定新たに變りて汝等罰をうくといへどもなほわが岩に來るをうるか。 
 わが導者このとき我をとらへ、言と手と表示をもてわが脛わが目をうやうやしからしめ 
 かくて答へて彼に曰ふ。我自ら來れるにあらず、ひとりの淑女天より降れり、我その請により伴となりて彼をたすけぬ 
 されど汝は我等のまことの状態のさらに汝に明かされんことを願へば、我もいかでか汝にこれを否むをねがはむ 
 それこの者未だ最後の夕をみず、されど愚にしてこれにちかづき、たゞいと短き時を殘せり 
 われさきにいへるごとく、わが彼に遣はされしは彼を救はんためなりき、またわが踏めるこの路を措きては路ほかにあらざりき 
 我はすべての罪ある民をすでに彼に示したれば、いまや汝の護のもとに己を淨むる諸々の靈を示さんとす 
 わが彼をこゝに伴ひ來れる次第は汝に告げんも事長し、高き處より力降りて我をたすけ、我に彼を導いて汝を見また汝の詞を聞かしむ 
 いざ願はくは彼の來れるを嘉せ、彼往きて自由を求む、そもこのもののいと貴きはそがために命をも惜しまぬもののしるごとし 
 汝これを知る、そはそがためにウティカにて汝は死をも苦しみとせず、大いなる日に燦かなるべき衣をこゝに棄てたればなり 
 我等永遠の法を犯せるにあらず、そはこの者は生く、またミノス我を繋がず、我は汝のマルチアの貞節の目ある獄より來れり 
 あゝ聖なる胸よ、汝に妻とおもはれんとの願ひ今なほ彼の姿にあらはる、されば汝彼の愛のために我等を眷顧み 
 我等に汝の七の國を過ぐるを許せ、我は汝よりうくる恩惠を彼に語らむ、汝若し己が事のかなたに傳へらるゝをいとはずば。 
 この時彼曰ふ。われ世にありし間、マルチアわが目を喜ばしたれば、その我に請へるところ我すべてこれをなせり 
 今彼禍ひの川のかなたにとゞまるがゆゑに、わがかしこを出でし時立てられし律法に從ひ、またわが心を動かすをえず 
 されど汝のいふごとく天の淑女の汝を動かし且つ導くあらば汝そがために我に求むれば足るなり、何ぞ諛言をいふを須ゐん 
 されば行け、汝一本の滑かなる藺をこの者の腰に束ねまたその顏を洗ひて一切の汚穢を除け 
 霧のためかすめる目をもて天堂の使者の中なる最初の使者の前にいづるはふさはしからず
 この小さき島のまはりのいといと低きところ浪打つかなたに、藺ありて軟かき泥の上に生ふ 
 この外には葉を出しまたは硬くなるべき草木にてかしこに生を保つものなし、打たれて撓まざればなり 
 汝等かくして後こなたに歸ることなかれ、今出づる日は汝等に登り易き山路を示さむ(煉獄篇第一曲から、山川丙三郎訳) 


絵は、煉獄山の麓で小カトーと遭遇したダンテとヴィルジリオを描く。





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