ブレイクのダンテ「神曲」への挿絵 |
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地獄の第八圏はマレボルジャと言って、十の嚢に別れている。マレボルジャとは、「邪悪な嚢」という意味の言葉で、ダンテの造語である。本文にもあるとおり、円型の圏域全体の中心に深い穴があり、その穴の周りを、円周を重ねるようにして10の嚢が取り囲んでいる。ダンテたちは、其の円周状の嚢の一番外側の所に、ジェリオンの背中から降り立ったのである。 マレボルジャは、悪意で人を欺瞞した者たちが落されるところである。様々なパターンの欺瞞の中でも、一番外側は婦女誘惑者、そのすぐ内側は阿諛者が落されて、獄卒の折檻を受けている。 地獄にマーレボルジェといふところあり、その周圍を卷く圈の如くすべて石より成りてその色鐡に似たり この魔性の廣野の正中にはいと大いなるいと深き一の坎ありて口をひらけり、その構造をばわれその處にいたりていはむ されど坎と高き堅き岸の下との間に殘る處は圓くその底十の溪にわかたる これ等の溪はその形たとへば石垣を護らんため城を繞りていと多くの濠ある處のさまに似たり またかゝる要害には閾より外濠の岸にいたるまで多くの小さき橋あるごとく 數ある石橋岩根より出で、堤と濠をよこぎりて坎にいたれば、坎はこれを斷ちこれを集めぬ ジェーリオンの背より拂はれし時我等はこの處にありき、詩人左にむかひてゆき我はその後を歩めり 右を見れば新なる憂ひ、新なる苛責、新なる撻者第一の嚢に滿て 底には裸なる罪人等ありき、中央よりこなたなるは我等にむかひて來り、かなたなるは我等と同じ方向《むき》にゆけどもその足はやし さながらジュビレーオの年、群集大いなるによりてローマ人等民の爲に橋を渡るの手段をまうけ 片側なるはみな顏を城にむけてサント・ピエートロにゆき、片側なるは山にむかひて行くごとくなりき 黯める岩の上には、かなたこなたに角ある鬼の大なる鞭を持つありてあらあらしく彼等を後より打てり あはれ始めの一撃にて踵を擧げし彼等の姿よ、二撃三撃を待つ者はげにひとりだにあらざりき さて歩みゆく間、ひとりわが目にとまれるものありき、我はたゞちに我嘗て彼を見しことなきにあらずといひ すなはち定かに認めんとて足をとむれば、やさしき導者もともに止まり、わが少しく後に戻るを肯ひたまへり この時かの策たるゝもの顏を垂れて己を匿さんとせしかども及ばず、我曰ひけるは、目を地に投ぐる者よ その姿に詐りなくば汝はヴェネディーコ・カッチヤネミーコなり、汝を導いてこの辛きサルセに下せるものは何ぞや 彼我に、語るも本意なし、されど明かなる汝の言我に昔の世をしのばしめ我を強ふ(神曲第十八曲から、山川丙三郎訳) ヴェネディーコ・カッチヤネミーコは婦女を誘惑したことでここに落されたのであった。彼と言葉を交わしたダンテは続いてイアソンの亡霊を見る。イアソンもまた、レンノの島を通りがかった時に、島の女イシフィーレを誘惑して孕ませたのであった。 絵は、第一嚢の通路の一角に立って亡霊たちを見ているダンテとヴィルジリオを描いている。空中を飛んでいるのがデモンだと思われるが、この絵からはデモンが亡霊を折檻しているイメージは伝わってこない。 |
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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2016 このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである |