ブレイクのダンテ「神曲」への挿絵 |
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ダンテとヴィルジリオは、煉獄の入り口であるピエルの門をくぐり、いよいよ煉獄山の本体を上ってゆくことになる。煉獄山の本体は七つの冠と呼ばれる層からなっている。その冠は、らせん状にせり上がってゆく道に沿って存在し、それぞれの冠には、七つの大罪を起こしたものたちが、罪の種類に応じて配されている。ダンテとヴィルジリオは、煉獄山を上る途中で、これらの人々と出会い、そこを過ぎるごとに、ダンテが額に記されたPの文字が、ひとつずつ消されることとなる。 二人は、狭い岩の間の道を上りながら、まず第一の冠に着く。そこは人間の身長の三倍くらいの幅の岩棚で、岩の表面には彫刻が施されていた。二人はその彫刻を、注意深く見つめる。 我等門の閾の内に入りし後(魂の惡き愛歪める道を直く見えしむるためこの門開かるゝこと稀なり) 我は響きをききてその再び閉されしことを知りたり、我若し目をこれにむけたらんには、いかなる詫も豈この咎にふさはしからんや 我等は右に左に紆行りてその状あたかも寄せては返す波に似たる一の石の裂目を登れり わが導者曰ふ。我等は今縁の逼らざるところを求めてかなたこなたに身を寄するため少しく技を用ゐざるをえず。 この事我等の歩みをおそくし、虧けたる月安息を求めてその床に歸れる後 我等はじめてかの針眼を出づるをえたり、されど山後方にかたよれる高き處にいたりて、我等自由に且つ寛かになれるとき われ疲れ、彼も我も定かに路をしらざれば、われらは荒野の道よりさびしき一の平地にとゞまれり 空處に隣れるその縁と、たえず聳ゆる高き岸の下との間は、人の身長三度はかるに等しかるべし しかしてわが目その翼をはこぶをうるかぎり右にても左にてもこの臺すべて斯の如く見えき 我等の足未だその上を踏まざるさきに、我は垂直にして登るあたはざるまはりの岸の 純白の大理石より成り、かのポリクレートのみならず、自然もなほ恥づるばかりの彫刻をもて飾らるゝをみたり 天を開きてその長き禁を解きし平和(許多の年の間、世の人泣いてこれを求めき)を告げしらせんとて地に臨める天使の うるはしき姿との處に刻まれ、ものいはぬ像と見えざるまで眞に逼りて我等の前にあらはれぬ 誰か彼が幸あれといひゐたるを疑はむ、そは尊き愛を開かんとて鑰をまはせる女の象かしこにあらはされたればなり しかして神の婢を見よといふ言葉、あたかも蝋に印影の捺さるゝごとくあざやかにその姿に摺られき 汝思ひを一の處にのみ寄する勿れ。人の心臟のある方に我をおきたるうるはしき師斯くいへり 我即ち目をめぐらして見しに、マリアの後方、我を導ける者のゐたるかなたに 岩に彫りたる他の物語ありき、このゆゑに我はこれをわが目の前にあらしめんとてヴィルジリオを超えて近づきぬ そこには同じ大理石の上に、かの聖なる匱を曳きゐたる事と牛と刻まれき(人この事によりて委ねられざる職務を恐る) その前には七の組に分たれし民見えたり、彼等はみなわが官能の二のうち、一に否と一に然り歌ふといはしむ これと同じく、わが目と鼻の間には、かしこにゑりたる薫物の煙について然と否との爭ひありき(煉獄篇第十曲から、山川丙三郎訳) 絵は、岩壁に刻まれた彫刻に見いるダンテとヴィルジリオ。彫刻には、ダヴィデの街へ運ばれる聖なる匱と、聖マリアへの受胎告知の様子が刻まれている。 |
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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2016 このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである |